はたママのつぶやき

2人の息子を持つ現役働くママのブログです。男の子って、息子って、とほほな事多いですよね。その他、働くママのつぶやきを綴っています。
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No  165

3月11日 東日本大震災の日のこと<徒歩帰宅前編>

すっかりのご無沙汰でした。5月に体調を崩し、9月に入院&手術、と色々ありました。その後は、もっぱら原発事故関係の情報収集や、OK FOOD情報を検索する日々。そんなこんなでブログがずっと放置状態に(^▽^;) Twitterが主になってました。

もう今更だけど、でもこれは完結させたいので、徒歩帰宅前編です。

*************************************

本震から2時間が過ぎ、社長とは連絡が取れないので、それぞれの判断を集結させ、業務停止にし、帰宅出来る人は帰宅する事にした。

以前、足立区で震度5弱を観測した地震の時、東京中の電車が一時ストップしてえらい目にあったことのある私は、東京が震度5じゃ、もう電車は当分動かないだろうな、と思っていた。

それぞれに聞いてみると、1人の女性スタッフは文京区に住んでいるので、徒歩でも帰れるとのこと。もう1人の女性スタッフは足立区なので、電車が動かないと無理。文京区に住むスタッフが、ダメならうちに泊まればいいから、とりあえずうちに来ればいい、と言った。

文京区と私の家だと、間違いなく文京区の方が近いと思ったので、それをお願いした。男性スタッフは埼玉に住んでいるので、とりあえずレンタカー会社に行ってみると言った(結局彼は会社に戻って会社に宿泊した)。

私は、徒歩で帰るしかないのだけど、いったいどれだけかかるのか想像がつかなかった。保育園に毎年提出する書類に、必ず「徒歩で帰宅する場合の時間」を明記する欄が、ちぇいちぇいの頃からあり、ぜ~~んぜん想像つかなかったので、毎年


2時間


と記載していた。実際、そんなもんかな~と安易に考えてた。だって、電車に乗ってる時間は20分なんだもん、近いかな?と思うじゃん(^^;

保育園に電話をかけてみると、3回ほどで繋がった。これから迎えに行きますが、電車が止まってるので徒歩で行くしくなく、いったいどれぐらいかかるかわかりません、と伝えた。先生はそれでも、


「何時ぐらいになりそうですか?」


と、聞くので、この時も


「2時間ぐらいですかねぇ」


と答えていた。実際は4時間かかったのだけど(ノ_・、)


私は地震前はクライアント先に行く予定で、受け取らなければならないものがあった。さらにそれを印刷会社に渡さないとならなかった。

これぐらいになると、固定電話から固定電話が確実に繋がるということがわかり、クライアントにも会社の電話からかけた方がかかるので、何度も連絡を試み、これが出発を遅らせる原因でもあった(実際会社を出発したのは17時半)。

クライアントはなんとか、私にそれを渡したがっていた。


「電車、止まってますよ」


と言っても、すぐに復旧すると思っているらしく、電車が動けば、どこどこまでは行けるとか、とにかく「もういいですよ。なんとかしましょう」とは言ってくれない(T-T)

しかたがないので、

「私は、とりあえず徒歩で子供を迎えに行くので、その後にどこかで落ち合えるかもしれないので、ところどころで連絡をいれますね」

と告げた。この時も、頭の中では2時間後にじくんを引き取って、だーりん母にお願いすれば、クライアントと落ち合えるかもしれない、とやっぱり安易なことを考えてた。

結局、この件は、JRが運休してしまったので実現せず、歩きながら何度もやりとりをし、印刷会社の営業さんが車で動いてるから、自分が直接引き取りに行きます、と言ってくれ、お願いをしたが、結局大渋滞でたどり着けず… という結果になったんだけどね。クライアントよ、早々に諦めてくれれば良かったのだよ(^。^;)

皆で一斉に会社を出た。当然、エレベーターは止まっているので、9Fから階段で降りた。私はじくん妊娠中、下りは必ず階段で降りるようにしてたので、それ以来でちょっと懐かしかった。

1Fに着くと、足元にコンクリートの破片が散らばっていた。上を見上げると、壁が一部剥がれ落ちてる。怖っ!!と皆で言いながら、避けてビルから外へ出た。ビルの外はたくさんの人が歩いていた。

私は途中まで、皆とわいわい歩いて行けるもんだとばっかり思っていたのだが、無情にも私1人だけがスタート地点から反対方向だった(T_T)


まじ?スタートから1人?(/ー ̄;)


急に心細くなった。とりあえず大通りを新宿に向けて歩き始めた。とにかくどこを歩いても、歩道は、人、人、人、だった。

この先にコンサート会場があって、皆そこへ向かってる、って感じの人並みが永遠と続いている。

歩いている間、何度も救急車が通った。やはりけが人が出ているのだろうか。iPodで音楽を聴きながら、もくもくと歩いた。

途中、何度もリダイアルを繰り返し、社長とやっと電話が繋がった。クライアントとも何度も連絡を取り合った。母とも電話で話した。

ふと、気づくと公衆電話がどこも長い行列を作ってた。携帯が繋がらないのか?、いや、私はさっきから、社長やクライアントや母と話せてる。あれ?と思って周りを良く見てみると、携帯で話してる人が1人もいない! そうか、私はPHS(ウィルコム)だから通じるのか。

実は、だーりんもウィルコムなのだが、前々日から岡山へ出張で行っていて、しかも昨日の延泊は急遽の事だったので、充電器を持って行ってなく、ウィルコムはこんな時に限って電源切れとなっていった(ばか。せっかく唯一通じたのに!)

新宿に着く頃には辺りは暗くなっていた。新宿に着いて、トイレに行っておいた方がいいかな、とトイレを借りれるところを探した。ユニクロの看板が見えて、ユニクロが入ってるビルならトイレあるだろう、とそのビルに入ると、「今日は閉店しました」の張り紙。新宿のアチコチのお店はほとんど閉まっていた。

やっぱりただならない地震だったんだ…

デパートが開いていたので入ると、2F以上にはいかれなく(エスカレーター等止まっていた)1Fのトイレは長蛇の列だった。

一時も早く子供達の元へ帰りたい気持ちの私は、長蛇の列に並ぶ気になれずデパートを出た。その先にビジネスホテルがあり、フロントには大勢の人が詰め掛けていたが、トイレはラッキーな事に空いていた。

途中、途中のコンビニもものすごい人。いちお入ってみたけど、ほとんど棚はすっからかんになっていた。

新宿を過ぎた辺りで、だーりんからメールを受け取った。


「JR終日運休決定」


えー。それじゃなんとしてでも、歩くしかないんだ。

すでに1時間以上が経過していた。この日は寒かった。3月11日は本当に寒かった。

私は歩いていれば身体も熱くなるだろう、と思っていたのに、熱くなるどころか冷え込む一方だった。歩いても歩いてもシンシンと寒かった。



これで本当に最後の最後。徒歩帰宅後編に続く。
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No  164

3月11日 東日本大震災の日のこと<帰宅前編>

あれから一ヶ月が過ぎてしまった。あまりに続く余震、電力不足等落ち着かない毎日を送っていたので、なかなか更新が出来なった。<地震編>で続きは<徒歩帰宅編>と書いたが、<地震編>を読み返し、補足事項がかなりあると思ったので、今回は中編とします。

ちなみに、久しぶりに自分の書いた<地震編>を読んで、涙が出て来てしまった。あの日の恐怖を思い出したから… 本当に本当に怖かった…


*************************************

揺れがおさまって、机の下から這い出した時、女性スタッフが高いキャビネを指差して、


「つけておいて良かった!!!」


と叫んだ。振り返り、私も叫んだ、


「本当だ!本当だ!ありがとう!!!」


そう、彼女は今朝、3/11の朝、全てのキャビネに「転倒防止(つっぱりタイプ)」を取り付けてくれていたのだ。私の会社は小規模だが、ISO27001(情報セキュリティマネジメントシステム)を取得している。そのために、会社
のあらゆる情報資産を守らなければならない。


・書類
・データ
・スタッフの命



主に上記。そのために災害対策をバッチリとしているのだ。とはいえども、少ない人数で、日々の業務をこなしながらやっているため、少しづつ、少しづつ、で、ようやく「オフィス家具の転倒防止もやっておかないとね」となり、器具は買っていたが、皆忙しく取り付けていなかったのを、3/11の朝、女性スタッフが取り付けてくれたのだ。


これぞ虫の知らせ!!!


転倒防止が取り付けられていなかったら、間違いなくキャビネは転倒していたと思う。


本震の後、何度も襲った余震をやりすごしながら、私はだーりんや義母、小学校への連絡に必死になっていたので、いったいどこが震源なのかをわからずにいた。

3度ぐらい余震をやりすごした辺りから他スタッフがインターネットで調べ始め、


「東北が震度7!」

「津波警報が出てる!」

「いや、大津波だよ!!!」



とそれぞれが報告してくれた。私は、震度7!大津波!!と驚きながらも、自宅(義母)や小学校へ、リダイアルをかけまくっていて、気持ちは家族の安否に行っていた。その間、福島県郡山に1人で住む伯母のことも気がかりだった。母と連絡取れた時、伯母に何度も電話してるが、電話が通じないと言っていた。

あの時、本当に気持ちは家族・身内の安否に集中していた。

3度目の余震で、机の下に避難をし、這い出した後、男性スタッフが携帯のワンセグをつけた。そして、女性スタッフとそれを見ながら、


やばい!

やばい!!

やばいよ!!



と叫んでいる。

家族安否確認に集中していた私だけど、その声に、「どうしたの?」とワンセグの映像を見に行った。画面には、海が映し出されていた。


海??


いや、よく見ると、海の真ん中に木が立っている。


???


女性スタッフが、木を指さしながら、


「この向こうは陸地だそうですよ」と言った。


!!!!!!!!!


「もう津波が到達してるの!!!」


そう言いながらも、その時の私はまだ事の重大さが飲み込めていなかったように思う。そして男性スタッフに言った。

「ワンセグ、すごくありがたいけど、今後に備えて携帯の電源確保も重要だから、切った方がいいよ」

そう、実は、社長が留守となると、次の責任者はマネージャーである私になるのだ。私はさっきから家族安否に気持ちが集中していたが、スタッフの安全や今後の事も心配しべきなのだ。

男性スタッフは携帯のワンセグを切り、私物のラジオをつけてくれた。その後に4回目の余震が来た。また4人で机の下にもぐった。

その時は、だーりん、実母、義母、妹、保育園の無事が確認出来ていたので、今後をどうするかを机の下で考えていた。それに集中していたので、ラジオの音は耳に入ってる程度だったけど、後で思い返すと、ラジオは


高台に避難してください

高台に避難してください

高台に避難してください



を繰り返していた。

間違いなく大変なことが東北で起きているんだ。


その後、関西に出張中の社長との連絡を何度も試みたけど、社長の携帯は繋がらず。私はその日、地震があった時間の1時間後にクライアント先に行く予定だったため、クライアントにも何度も電話をかけまくった。もう電話は全然繋がらなくなっていた。

私が電話に張り付いていると、本社(シンガポール)から電話が入った。心配をしてかけてくれて来たらしい。本来、その電話には私が応対すべきだけど、私が色々なところに電話をかけまくってるのを皆知ってるため、2人のスタッフが状況を本社に報告してくれた。そうか、もう世界的にもニュースになっているんだ。


そうしながらも小学校だけが連絡を取れていなかった。通常、何かあると小学校から一斉配信メールが届くはずなのだが、それも来ていなかった。

小学校は大丈夫、と一番に思ったのに、だんだん不安が押し寄せて来た。あの小学校なら、あの校長なら、絶対に「皆無事です」とのメールを真っ先に送るはず。それが来ない、何かあったのか…

また、心臓がバクバクして来た。

地震の時間を調べると、14時46分だった。ちぇいちぇいはどこにいたのだろう。確か今日の終業時間は15時頃だったはず。その後、学校内の放課後スクール(誰もが利用可能な学校の学童)に17時まで行く予定だった。

だーりん母は、小学校に迎えに行ってもいいけど、万が一1人で帰宅してる最中で行き違いになったら大変だから、連絡が取れるまでは自宅待機してる、と言った。

すると、私の携帯にちぇいちぇいから電話が入った。我が区では、携帯機能付防犯ベルを区から支給されている。



「長男から電話だ!!!」



私は叫び、いそいで出た。



「ちぇいちぇい?

ちぇいちぇい?」



しかし、切れてしまった。慌てて、私から電話をかけた。しかし、何度リダイアルしても繋がらない。


基本的に学校内から、防犯ベルで家族に連絡を取る事は禁じられている。



ま、まさか下校途中だったの!?


実は、前日は放課後スクールに行かずに15時頃に下校をした。おばあちゃん(だーりん母)が来てくれているので、ちぇいちぇいがまっすぐ帰って来たいと言い、そうした。


ま、まさか、今日もそのつもりだった!?


心臓がバクバクし、リダイアルする手が震えた。もし1人で下校途中であんな地震にあったら、さぞかし怖かっただろう、と思うと泣きそうになった。

しばらくちぇいちぇいへのリダイアルを試みたが、私はかける先を変えてみた。学校内の放課後スクールにかけてみた。5回ぐらいリダイアルすると、なんとかかった!


「今日、そちらに行ってますか?」


私の問いに、


「いえ、児童は全員各教室に待機しています」


あぁ… 良かった。まだ誰も下校してなかったんだ。


「学校は大丈夫でしたか?」

と聞くと、

「ええ、すごく揺れましたが被害なく、児童も皆大丈夫ですよ。引き取りに来るように学校からメールが配信されてるはずですよ」

と言われた。

「そうなんですか!? 受け取ってないです!」

「やっぱり受け取れてないですか… 皆さんそう、おっしゃるんですよ」


とにかく、最後にちぇいちぇいの無事が確認されて胸をなでおろした。そしてだーりん母に電話をし、小学校へ迎えに行ってもらった。だーりん母は


「じくんも迎えに行きましょうか?」



と言ってくれたが、余震が続いている中、だーりん母にちぇいちぇいとじくんの二人を守ってもらうのは、どうかと悩んだ。いや、それよりもたぶんマンションはエレベーターが止まっている。17Fまで、だーりん母1人でじくん抱っこであがれるわけがない。

「とりあえず、ちぇいちぇいだけでいいです。保育園には私かだーりんかが行きます。ちぇいちぇいをどうかお願いします」

と頼んだ。


<続く>
※次こそ<徒歩帰宅編>にします。
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No  163

3月11日 東日本大震災の日のこと<地震編>

東日本大震災で、被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。また亡くなられた方々のご冥福を心の底よりお祈り申し上げます。


ようやく気持ち的にも落ち着いて来たので、あの日のことをつぶやこうと思う。


*************************************


あの日、3月11日14時46分、東日本大震災が起こった時、私は東京新宿区の9Fオフィスにて仕事をしていた。ちぇいちぇいは小学校、じくんは保育園。だーりんは泊まりの出張で前日まで岡山。当日のその時は、岡山にいるのか東京に帰って来ているのか連絡は取り合ってなかった。


私の勤める会社は小規模で、社長を入れて総勢6名。その内、1名はクライアント先に出向、社長はめったにない(1年に1回あるかないか)出張で関西にいたので、オフィス内は私を入れて女性3名、男性1名で仕事をしていた。


一番若い20代の女性スタッフがトイレに席を立ってる時、地震は起きた。最初は小刻みな縦揺れだった。


最初は、「あ?地震?」なんて感じで、関東に住んでいればしょっちゅう経験する程度の地震だと思っていた。もう1人の女性スタッフと、



「結構、揺れるね。あ、ちょっと大きくなって来た?」



と話していて、トイレに行ってしまったスタッフを気にし、



「○○さん、大丈夫かなぁ」と言っていた。そんな風に会話をする余裕があった。今まで何十回も経験している程度の揺れがしばらく続き、小刻みな縦揺れは、そのうちに横揺れに変わった。


今まで45年生きて来て、数え切れない程地震を経験し、今までの地震はこれでおさまっていた。



ところがだ。


横揺れがどんどん、どんどん、大きくなって行く。



「お、大きいよね!?」



私が言ったのか、もう1人の女性スタッフが言ったのか、同時に言ったのか覚えてない。オフィス内にいた3人で叫びあった、



「机の下にもぐったほうがいい!!!」



3人で一斉に机の下にもぐった。机の下にもぐった瞬間、もう1人の女性スタッフが、


「○○さん、大丈夫かな!」


トイレに言ったスタッフの事を言ったが、私でさえ机の下から這い出して、トイレに行ってあげる、なんて余裕はもうなかった。その時には揺れがMAXになっていて、机の下にある袖机が私の方にせまって来て、私は両手でそれを押さえるのに必死になっていた。

そして、思い出した。NZ地震で、倒壊したビルから助け出された日本人留学生がインタビューで、



「最初は友達とやばくない?と話していて、そうしたら突然床から落ちた」


と言っていたことを。




ガタガタガタガタガタガタ




建物の音なのか、オフィス家具の音なのか、ガタガタという音がクレッシェンドで大きくなって行く。


こんな経験した事のない大きな揺れ。



絶対に床が落ちる!建物が倒壊する!!



恐怖が襲った。


男性スタッフが叫び続けた、


「頭守って!頭守って!頭守って!!」


彼は、揺れがMAXの中、ずっとそれを叫んでいてくれたように思う。私ともう1人の女性スタッフはもう声も出なかった。

そこで、入り口から声が聞こえた、


「入り口開けておいた方がいいですか!!」


トイレに行っていたスタッフが戻って来たのだ。私達3人は一斉に声をあげた。私もようやく声が出た。3人で怒鳴った。


「いいから!テーブルの下にもぐって!そこのテーブルの下!!」
(入り口には打ち合わせスペースのテーブルがある)


彼女が戻って来たことに少し安堵し、しかし、相変わらずMAXで揺れ続けてる中、恐怖と戦いながら私は思った。




「私はここで死ぬわけにいかない」




私は2児の母だ。彼らを守らなければならない。だからこそ、まずは自分の命を守らないと!なんとしてでも生き延びて、彼らの元に帰らなければ!!!!!!


それから考えた。だーりんは岡山だ。そうだ、だーりんが東京にいないからこんな大きな地震が起きたんだ。だーりんは神戸出身。阪神大震災の時は大学生で東北にいた。だから経験していない。その後に起こった宮城沖地震の時は神戸に帰省していた。以前、東京の足立区で5弱を観測した地震の時もだーりんは出張で大阪にいた。「俺と一緒いたら大地震は起きないよ」とだーりんは言っていた。


私は意味不明に叫んだ。


「うちのだーりんが、東京にいないからこんな大きな地震が起きたんだよ!!」


こんな時にはっきり言って意味不明。でも、恐怖と戦う時間が長すぎて、何か言わずにいられなかったのかもしれない。


関東に生まれて、「関東には大きな地震が来る」と言われる中育った。学校でもそれを想定した訓練を何度も受けて育った。だから、地震が起こるたび、


とうとう、来たか!?


と思い、でも震度5以上は経験することなく45年が過ぎた。でも今回は心から確信した。



とうとう、とうとう、とうとう、とうとう
本当に来てしまったんだ!!




そして考えた。今の時間なら(正確な時間は見てなかったが、外の明るさで)ちぇいちぇいは小学校にいるはず。ちぇいちぇいの小学校は校舎を立て直して新しいから、耐震的には大丈夫だろう。問題はじくんの保育園… じくんの保育園は建物が古いわりに上に高い。その1Fにある…


さらなる恐怖が私を襲った。それはものすごい恐怖だった。体が震えた。そして、ただただ、ただただ、祈った。



早くおさまりますように。倒壊しませんように。
保育園も無事でありますように。


お願い!
お願い!!
お願い!!!





ひたすら祈った。
ひたすら祈った。
ひたすら祈った。



上の状況説明でもわかる通り、色々な思いが交錯する程、長い揺れだった。長い長い恐怖と戦った。



・・・・・・・・・・・・・・・・


そして、なんとか揺れがおさまった。ビルは倒壊しなかった。


皆で「怖かったね。。」と言いながら机から這い出し、「あ、これ倒れてる。あ、書類が散乱してる」等オフィス内をチェックしていると、すぐまた大きな余震が起こった。


地の底からエネルギーが突き上げてくるような、ダダダダダダダダダという感じの地響きがして、そしてまたガタガタと揺れ始めた。





「また来た!!!!!!!」





全員で叫び、また、皆で慌てて机の下にもぐった。その後も余震は何度も起こった。その度に皆で



「来た!来た!来た!!」


と言いあって、机の下には計5回ぐらいもぐったと思う。


途中、窓を開けておいた方が良いだろうと、窓を開けて、ふと外を見ると、外にいる大勢の人たちが皆立ち止まっていた。しかも車道の真ん中にいる人たちが大勢いた。落下物に気をつけるため、車道まで避難をしたんだろう。車道に避難してる、ということは車も全て止まっているのだろう。そんなことになる地震は本当に初めてだ。今まで経験した地震は、外で歩いていたり、車に乗ってる人は感じない程度で、外はいつもと変わらない風景が広がっていた。しかし、今回の地震では外は時が止まってしまったかのようになっている。


オフィスのドアも開けると、ビルの廊下もザワザワザワザワしていた。時が止まった屋外と、ざわめくビル内。いつも関東に良く起こる地震ではないんだ、という事がそれでも実感出来た。


その頃には少しは平穏を取り戻していた。それは、私のオフィスのビルは古いから、昭和40年代の建物だから、耐震基準が変更される前の建物だから、この建物が大丈夫だったし、オフィス内もめちゃくちゃにはならなかったのだから(後で気づいたのだが、なんとその日の午前中に女性スタッフが、背の高いキャビネ全てに転倒防止を取り付けていたのだ!!)自宅も実家も小学校も大丈夫だろう。たぶん保育園も…


私はまず、母が行ってるはずの中目黒(母の実家)に電話をした。だーりんが東京にいるとは思わなかったので、一番最初に連絡を取ったのは実母だった。何故なら、そこも昭和40年代のビル。じくんの保育園の次に心配だったから。もちろん、保育園に一番に電話をしたかった。でも先生達には園児の安全を第一にして欲しいから、電話をして邪魔をしたくなかった。預けてでも仕事を続けようと決心した時から、それは覚悟していたこと。何か起こった時、先生達を信じて任せるしかないのだ。


母は、駅から実家に向かう途中歩いてて、あと実家まで200mというところで地震にあった。最初は自分だけがふらついているのだと思い、ひどいめまいだ、と思ってその場にしゃがみこんだ。すると、あちこちの建物から人々が悲鳴をあげながら飛び出して来て、何事!?としばらく状況がつかめなかったが、しばらくして地震なんだと気づいた。無事だった。その後戻った母の実家も無事だった。


電話を切ると、私の携帯に知らない番号から電話がかかって来た。出ると、だーりんの声がした。番号は東京03を表示していた。



だ「あー、やっと繋がった。大丈夫?」
私「あれ?東京にいるの?」
だ「午前中に帰って来た」
私「なんだ、こっちにいたんだ。こんな大きな地震が起きたからてっきりまだ岡山かと思ってた。私は大丈夫だけど、じくんの保育園が心配。ちぇいちぇいの小学校は大丈夫だと思う。お母さん(だーりん母)には繋がらない(だーりん母は手伝いで東京に来てくれていて、私達の家にいるはずの時間)」



最初の電話はそれで切った。携帯は無理だったが、一般電話なら繋がるので、一般電話で義母(私の自宅)にかけまくっていると、ようやく通じ、無事を確認。ちぇいちぇいをどうするかは、小学校から指示があるはずだから、また連絡する、と言って切った。自宅は、テレビ台が前に進んだのと、引き出しが開いたのと、ロックをしてなかった窓が開いたぐらいであとは大丈夫、とのこと。17Fなので、相当揺れたと思うが被害は出ていなく、義母も無事で安心した。


その後、妹からも無事のメールが届き、旭川の友人から心配メールが届き、それらに返信しているうちに気持ちもだいぶ落ち着いて来た。


しばらくして、だーりんから電話が入り、保育園の無事が確認出来た、とのこと。これでひとまず安心が出来た。



<続く>
※長くなるので次は<徒歩帰宅編>にします。




↓東京での揺れはこちらで見られます。

2011.3.11 東北地方太平洋沖地震 その瞬間

これは江東区ビル5Fですが、私がいたのは新宿区ビル9F。このビルほどの被害は転倒防止器具等のおかげでなかったけど、この地震の長さがわかると思います。奥の洋服を見てると最初は小さいな揺れから始まったのもわかります。





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No  162

【2歳】誕生日おめでとう!!

じくんが2歳になったよ

おめでとう♪
おめでとう♪

相変わらず、重度のアレルギー体質は変わらず、食べられないものオンパレードで、アトピーも健在だけど、元気いっぱいに育ってくれてる

生後6ヶ月から、体重が減り始め、アレルギー体質のため、アレルゲンを排除しようと栄養まで排除してしまって、栄養失調になってる… とショックな話を聞かされ、それからは本当に色々と大変だった。身長の体重も標準圏外。入院してステロイドでの集中治療をした方がいい、とまで言われたのを断り、ステロイド治療をしない病院を探し、今の病院にて乳酸菌のみの治療と、ホメオパシーだけでやって来た。

2歳になった今では身長も体重も標準圏内。肌も驚くほど綺麗になった。やっぱりステロイド治療だけが全てじゃないんだってわかった。今の病院でも「正直、これほどまでの状態で、ステロイドを処方しない医者はいないと思う」とまで言われたけど、でも私とだーりんの方針を見守ってくれた主治医には本当に感謝。

そんなこんなで、本当に大変な2年間だったし、今でも食物アレルギーと夜中の痒みとの戦いはまだまだ大変だけど、でも他は本当に問題なく元気いっぱいに育ってくれてる

1歳までハイハイすら出来なかったのが嘘のように、今では走り回っているしね。あと言葉が達者だね。節分の日に、鬼のお面を作って来て、


「ママ、みて~。これ、ボク、つくったの~~」


と言ったのが初めての文章言葉だったのをかわきりに、


「ママとアンパンであそぶ」


なんてことも今では言う。これって、2語をアッサリクリアして3語になるの?? しかもお誕生日に妹夫婦からもらったアンパンの音の出る本で「Good night」と音を出し、


「グッ、ナ~イ」


と言っているのを聞いた時にはたまげた。え、英語もかよ! 耳がいいのかなぁ~。まぁ、とにかく良くしゃべってる。私が帰宅すると、


「おかえりなちゃ~~い」


って言いながら出迎えてくれるのが、本当にかわいい 一般的な当たり前の名詞は大抵言えるんじゃないかな。おばあちゃん、おじいちゃん、おにいちゃん、も上手に言えるしね。あと、お友達の名前も完璧。登園すると、


「○○ちゃん、おはよ~」


って言うんだって。かわいい


さて…

無事に2歳を迎えられて思う事ある。それはちぇいちぇいの2歳の誕生日の事。前にちぇいちぇいの誕生日のブログにも綴ったことあるけど、ちぇいちぇいが2歳の誕生日を迎える前に、彼の最初のお友達が亡くなった。1歳10ヶ月。SIDSだった。

今だから言うけど、じくんの1歳10ヶ月の1ヶ月は、私は気が変になってしまいそうだった。私にとってちぇいちぇいのお友達が亡くなった1歳10ヶ月という年齢は、とてもとてもとても… うまく言葉で説明が出来ない思いがあるから。

それは単に、SIDSを恐れている、という意味ではない。1歳10ヶ月を乗り越えられれば安心、なんてそういう意味でもない。男の子母でいる以上、いや、子の親になった以上、いくつになっても心配はつきないと思う。先日も熊本で悲しい事件が起きた。だからいくつになっても心配はつきない。

私にとって1歳10ヶ月は深い思いがある。こんなにかわいかったんだよな… と天国に行ってしまったあの子を思い出す。こんなにかわいい盛りだったんだよな、ともうそれっきり会っていないパパとママを思い、むごい、と思う。色々な意味で、1歳10ヶ月は重かった。

その当時のつぶやきはコチラ
※3月26日のつぶやき


じくん、無事に2歳迎えられたね。君は、重度のアレルギー体質で、辛いこといっぱいなのに、明るく育ってくれてありがとう。

イタイ、イタイって、痒みが痛みになり、夜中に泣き喚いて、血だらけになって、それでも翌朝は「おはよ~~」ってかわいい笑顔で起きてくれる。

お友達やお兄ちゃんと同じものが食べられないのに、一度も駄々をこねて困らせたことがない。「ぼくも~」って欲しがるとき、ママが「じくんが食べたら、かいかいになっちゃうからね」と言うと、「かいかい、バイバイ!」って笑顔で言えて、本当に我慢強くてすごいよ。

ね、だからママは多くを望まない。じくんの辛さがなくなることだけ、それだけは望むけど、でもあとは君は好きに生きればいい。

何よりも、何よりも、待ち望んだ君が我が家に来てくれたことで、ママの望みは叶ったのだから。



2歳のお誕生日おめでとう。
元気でいてくれてありがとう。
おうちに来てくれて本当にありがとう。

じくんの2歳の誕生日にママより愛をこめて
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